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用の美が備わるカイハラデニムの原点、備後絣

カイハラデニムのある広島県・福山市は、伊予絣(愛媛県・松山市)、久留米絣(福岡県・久留米市)と並び日本の3代絣備後絣と称される備後絣が製造されています。カイハラもかつては手織正藍染絣を製造する小さな機屋でした。備後絣は主に着物や耕作業着などの大衆衣服の最も一般的な素材で吸湿性に優れ、夏は涼しく冬は繊維の中心部が空洞になっているために暖かい空気が放出されづらく実用性が高い素材です。また、美しい色彩や柄が特徴的で「用の美」が感じられます。時代の荒波を乗り越えて作り続けた伝統の絣の知識と技術は現在のデニム作りの基盤となっています。

 時代の荒波を乗り越えて作り続けた伝統の絣

1893年に創業したカイハラは当初、「マルス」という商標を掲げて絣製造を行なっていました。当時は日清・日露戦争の真っ只中で、困窮した時代でしたが、業績は順調に伸び、創業から10年で社員30人を抱え、年間5000反の絣を製造するまでに成長しましたが、1941年に太平洋戦争が勃発。糸の配給がストップし、経営危機を迎えます。存続の危機に際して奮起したのが、3代目となる貝原定治でした。定治は「着る人の立場になり、本当に良い製品を全身全霊で作ろうじゃないか」と社員に意気込みを伝えます。そして、社員が一丸となって研究を重ね、1956年に洋服用広幅絣の製造に成功。苦心の末に完成した28インチ(71cm)の広幅絣は多くの企業から絶賛され、「広島の片田舎で、こんなにすごい製品を生み出す会社があるのか」と大きな注目を浴びました。一時は危機を迎えたカイハラでしたが、定治の努力により苦境を乗り切ることができました。

↑カイハラ本社に残る絣の絵型。これらを元に絣の織り方が決まった。ユニークな絵柄はいま見ても新鮮に見える。

“デニムメーカーとして生き残る”という覚悟を受け継ぐ

その後、機織り会社や衣料品メーカーが、絣で培った技術を応用してデニム生地を作って欲しいと依頼されました。当時はベトナム戦争に対する反戦運動が盛り上がり、平和の象徴として世界中の若者たちがジーンズを穿くようになっていました。同じ頃、日本初のジーンズブランドも誕生しており、今後のデニム需要の高まりが予測されていたのです。定治は絣製造からデニム生地製造へと事業を大きく転換することを決意。世界を視野に入れたデニムファクトリーへの道を歩み始めます。ロープ染色を始めた1970年以来、カイハラは新たな決意のもとデニム生産に取り組んできました。現状を良しとせず、常に進化と発展に力を注いでいます。それは貝原定治が掲げた“デニムメーカーとして生き残る”という覚悟を受け継いでいる証です。

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